幻疼痛

 

 







 

「・・・・・・大丈夫ですか?」

早乙女研究所に勤めて十年。

数少ないベテラン所員のひとりである中内は、目の前の若い男に敬語でそう尋ねた。

青年は彼の息子よりも年少だったが、それでもそういう言葉遣いをしている。

その理由は彼が十代半ばで無数の候補者から選出されたゲッターロボのパイロットであり、世界有数の天才に名を連ねている実質上の副所長であることがあげられるが、他にも言葉に言い表せない何かを持ち合わせている。

威厳があるとも言えるのかもしれない。

だがそんな稀有な若人は今ひどく憔悴、いや、衰弱しているようだった。

濡れるように光る黒瞳は真っ赤に充血し、疲労がはっきりと見える。

顔色は墓土のようにひどく悪く、薄い頬には微かに骨の形が浮いていた。

ぱさつきだした黒髪が動くたびに乾いた音をたてる。

「・・・・・・・ああ」

青年は年上の部下の問いかけに、少し遅れて頷く。

その間は言いよどんだというより、意識が途切れかけたような沈黙だった。

どれほど疎い人間が見ても疲れ切っているとわかる。

欧米系と並んでも見劣りしない長身が、さらに削られたように細くなっていた。

「もうあとは私がやっておきますから、神さんは早く休んでください」

「・・いや、大丈夫」

目を覚まそうとするように力なく首を振るが、効果は得られなかったとみて軽くこめかみを押さえた。

言葉と正反対な様子に、親子ほど年が離れた部下は咎めるように語調を強くする。

「大丈夫じゃないでしょう。もうずっと休みをとってないじゃないですか」

「それは君も一緒だろう?」

「確かにまとまった休暇はここ何年かもらってません。ですがきちんと一月に一週間の休みはもらってます。神さんはそれどころか休憩もとってないじゃありませんか」

ここしばらく彼が食事や睡眠に時間を割いていないというのは、所員の中で心からの危惧とされていることだ。

風呂などにはちゃんと入っているようだが、それ以外は仕事しかしていないように思われる。

何故倒れないのかが不思議なほどの過密スケジュールをこなし続ける姿は、狂気の色すらちらついていた。

彼がここまで自分を追い込んでいる理由は研究所内の誰もが知っている。

目の前の青年=神隼人の婚約者であり、この研究所の所長の娘である早乙女ミチルが亡くなったのは二ヶ月ほど前のことだ。

才色兼備で大らかで優しく、この若い天才と本当にお似合いのカップルだった。

皆の祝福を受けて、式の日取りを待つばかりだったのだ。

しかし彼女は死んでしまった。

人類の未曾有の危機を救ったロボット、ゲッターロボの合体訓練でだ。

あれが明らかに事故なのは明らかだった。

計器のチェックを担当していたのは中内だったが、激突直前まで機体にはなんの異常もなかったからだ。

手動で合体を解除したのは三号機。

つまりミチルが乗っていた機体。

何故そんなことになったのかはわからないが、その事件によるショックが冷めやらない中、研究所内部ではある確執が生じていた。

早乙女博士と一号機と二号機に乗っていたパイロットとの関係がそれだ。

今まで人格者で通っていたゲッター線の第一人者は、ことあるごとに隼人と竜馬を罵った。

娘が死んだ原因はふたりにあると言うのである。

そんな無茶な話はない。

ミチルを含めた彼ら三人は仲間であり、隼人にいたっては婚約者だった。

殺す動機もなければ、事前になんの仕掛けもなかったことは整備班が保証する。

むしろ彼女の死で気落ちしているのは彼らの方だ。

傷が残ったのは体だけではないだろうに。

当然彼らもやつあたりとしか思えない仕打ちを甘んじて受けるようなことはしなかったが、それはかえって事態を悪化させることになっていた。

どれほど仲裁に入っても、両者の主張はかみ合わず、ただただ博士の一方的な悪意の奔流が迸るのみ。

何度となくその場面に出くわしているが、若いパイロットふたりに同情することくらいしか出来なかった。

ここ最近は、竜馬は博士を避けているようだし、隼人の口数は減る一方だ。

和解の糸口すら見えない。

博士の気持ちはわかる。

中内も人の親だ。

息子が死んだら、Qき悲しむことだろう。

だがそれによって誰かを傷つけることなど許されない。

ましてや彼もまた彼女への哀惜の念に苦しむひとりだ。

改めて蒼白い美貌を見やる。

そして今まで何度繰り返してきたかわからない言葉を差し出した。

「あれは事故です。博士は娘さんを亡くされて荒れているだけですよ」

「・・・ああ」

そうだろうな。

隼人は小さく頷いて、いつもと変わらない答えを返す。

以前にも増して筋張った指で長く垂れた前髪をゆるくすいた。

その言葉どおり彼にはわかっているのだろう。

今の状況を。

何も出来ることがないことも。

そういう人だ。

本当にどちらが年長かわからないほど老成しすぎている。

しかしいくら理性が強固でも、自分ではどうにもならない痛みというものは存在する。

だからベテラン研究員は懸命に鼓舞しようとした。

無駄だと知りながら。

「誰も博士の言葉を額面どおり受け取っていません。気にするなとは言いませんが、どうか無理しないでください」

「・・・・ありがとう」

青年は口元を歪めて、微笑もうとしたようだった。

しかしそれは完全な形にはならず、微かに表情が和らいだだけに留まる。

その目はとても二十五の青年とは思えない、疲れきったものだった。

 

 

 

明日のスケジュールはどうだっただろうか?

曇りガラスの向こう側のように、判然としない頭の中から緩慢に情報を引き出す。

部下からは休むように言われていたが、そんな暇はなかった。

明日は新宿で教授会がある。

それで一日が潰れて、帰ってきたら新炉心の設計を組み立てなくては。

機械的に浮かび上がってくるそれらの事項を当然の如く受け入れながら、隼人は廊下を進んだ。

警備の関係上電気はつけたままのはずなのに、何故か薄暗い。

その原因が自分の目にあることに辿りつくまで、面白いほど間があった。

思い返せば、ここしばらくまともに食事をとっていない。

しかし別に空腹感はなく、ただ体がどんどん軽くなっていくのがわかるだけだった。

そういえばここ数日は食事代わりのサプリメントも飲んでいなかった。

考えてようやく思い出す。

今まで脳裏に掠めもしなかった。

こんな生活があとしばらくも続けばまともな生活も出来なくなるだろう。

だがそれはどこか他人事のように感じられる。

自分の体のことだというのに不思議なほど危機感を覚えない。

恐いといった感情が湧いてこないのだ。

それが表面に滲み出す前に、どこかに流れ落ちていくようだった。

感情をためる場所に穴が穿たれているように。

『貴様達がミチルを殺したんだ!!』

顔をあわせるたびに礫のように打ち付けられる罵倒。

違う。

あの時も、それまでも、一度たりともそんなこと考えたこともなかった。

それは誰にであろうと誓える。

竜馬も同じだろう。

しかし何度否定しても、訴えても、返ってくるのは冷たい視線と汚泥が煮立つような憤怒だけだった。

どうしたらわかってもらえるのだろう?

時間が経てば、伝わるのだろうか?

それはいつになるのだろう?

漠然と浮かび上がる問いかけは、くるくると答えを求めて迷走し続ける。

しかしそれとは別に、このままの方がいいのではないかとも思っている自分がいる。

復讐する対象がいるということは幸せなことだ。

怒りの矛先が存在すれば、そちらに感情を向けられる。

悲しみや苦しみを、怒りと憎悪で覆い消せるのだ。

そうすれば痛みは薄らぐ。

消えない傷ならば、少しでも苦痛が取り除かれる方がいいに決まっている。

だがそれをぶつけられるのは自分だけで十分だ。

竜馬が背負う必要はない。

「・・・なんであの時」

自分はミチルが搭乗することに賛成したのだろう。

パイロットの人数が足りないなら訓練などしなければ良かったのだ。

なのに何故彼女を乗せた?

これだけはどれだけ後悔しても、し足りないことだった。

悔やんでも仕方がないことぐらいわかっている。

過去の可能性を嘆いたところで何も変わらない。

全ては起こり、終わったのだ。

もはや記憶の中にしか存在しない人には触れることも叶わない。

臓腑が冷えていくような、空しさとも痛みともつかない感触が内部を蝕む。

先が見えない。

今の向こう側の想像が出来なくなっていた。

ただ目の前にはどろりとした闇が澱のように沈んでいる。

進むべき道どころかどこに行けばいいのかすら思い浮かばない中、隼人は逃げ出そうとはしなかった。

逃げたところでどうにもならない。

誰も救われない。

泡沫のように無数に生み出される己の感情を、理性で潰す。

だから隼人は生きていた。

自分にはやるべきことがある。

生きなければいけない。

そうすれば_。

細い体が揺らいで、歩調が乱れる。

心なしか不規則になってきた呼吸を整えようと、ふらつきながら立ち止まった。

長躯を壁に寄りかからせ、しばし目を閉じる。

鈍い痛みが瞼の奥で疼いた。

いくら強靭な肉体を持つ隼人でも、二ヶ月もほとんど不眠不休でいれば弱る。

現に限界はきていた。

だがそれを認めることを拒み、隼人は再び歩き出す。

そんな時だった。

「動くな」

「っ」

くぐもった低い呟きが突然背後から流れたかと思うと、首を絞められ喉笛に硬い感触が押し当てられる。

すぐに横目で確認すると、黒い覆面が視界の端に映った。

手の大きさと声から判断すると男のようだ。

腕力も相当強い。

明らかに訓練されたものの動きと力を持ち合わせていた。

しかしテロリストなどにしてはおかしい。

この研究所のセキュリティは他の軍施設の比ではない。

いかにどんな優れた能力を持っていようと、最深部と言えるこの区画になんの騒ぎも起こさず入り込むなど不可能だろう。

ではどこかの国や組織の軍隊だろうか?

ならばもっと装備が充実しているだろうから、腕によってはここまで来れるかもしれない。

しかし軍隊にしては妙に型にはまっていないように感じられるし、単独なのも気になる。

それにわざわざ長身で、最近かなり痩せたが十二分に体格がいい隼人を狙うのもおかしい。

いや、もしかしたら最初から『隼人』を狙っていたのかもしれない。

まがりなりにも世界有数の科学者だ。

拉致しようとする理由なら手の指だけでは数え切れないだろう。

隼人は自分が置かれた状況を異常なほど冷静に反芻した。

そうしていると無理矢理引き摺られて、一室に連れ込まれる。

ここは記憶に寄れば娯楽室のひとつ。

娯楽室とは所員のために設けられた休憩場のようなものだ。

簡単なバーのような作りになっていて、勤務時間外だった場合は酒も飲める。

確かにこの時間は無人のはずだ。

だが監視カメラは作動している。

しかしいっこうに警報が作動する様子はない。

担当者が揃って居眠りでもしていないかぎりは、システムを改ざんした、または監視者を皆殺しにしたと見ていいだろう。

かなり『やる』ようだ。

大人しく相手の力に従いながら、そこまで状況を把握する。

自動的に点灯した照明に軽く頭痛を覚えていると、拉致した犯人はつきつけていたボールペンを外し、隼人の正面に立った。

顔を全て覆っていた覆面を脱ぎ捨てる。

そこでようやく相手の顔が露になった。

精悍な面差し。

その中で際立っているのが目だった。

野性的なまでに鋭く、荒々しい双眸。

それは隼人にとってあまりに見慣れたものだ。

「・・・・なんのまねだ?リョウ」

驚くでもなく怒るでもなく淡々と尋ねてきた親友に、リョウ=流竜馬の表情は硬かった。

今の彼はいつものTシャツとGパンのような軽装ではなく、きちんと訓練服を着込んでいる。

しかしこれといった装備は付けておらず、それが違和感となっていた。

「・・警備システムはどうしたんだ?」

「・・・なんでだよ」

平然とそんなことを尋ねてくる隼人に、竜馬は唸るように呟く。

くっきりと描かれた眉が不機嫌も露につり上がった。

むしろこんな悪戯ではすまされないことされた方ではなく、した方である彼の方が表情が厳しい。

苛立ちを押し込めたような硬い顔だった。

「・・・なんで抵抗しなかった?」

「・・お前だとわかったから

「嘘だ」

竜馬は親友の空言を遮った。

いかなる敵にも怯まないその目は、激しく揺らいでいる。

気配は完全に消していたのだから、接近には気取られなかった。

だからこの襲撃めいた茶番は予測をしていない事態のはずだ。

だが隼人は終始体をュ張らせることはなかった。

余裕などではない。

誰であろうと、いや、優秀すぎる戦士であればこそ、壮絶な戦闘能力を持つほど自分の背後をとられ、その上喉笛に武器らしきものをつきつけられれば混乱する。

しかし隼人は何もしなかった。

大人しくされるままになっていたのだ。

竜馬の顔が何かを恐れるように翳る。

「・・・・殺されてもいいと思ってたのかよ」

「・・まさか」

深刻というより悲壮な戦友の台詞に、隼人の口元が笑みを描く。

この状況からは不釣合いなほど穏やかな声で、

「おい、まさかそれを確認するためにこんな拉致紛いのことやったのか?」

「・・・・・・・・・・・」

竜馬はその問いに押し黙る。

それは肯定ということなのだろう。

隼人は相変わらず怒るでもなく、目を細める。

「ありがとう」

「・・・・・・・・」

「だがそれは杞憂だ。俺はなんでもない。ただ今ちょっとたてこんでるがな」

小さくため息をついて、最近伸びっぱなしになっている髪を耳にかけた。

その指が前にもまして細くなっていることを竜馬は見逃さない。

だがそれについて言及する前に、美丈夫はやわらかに言葉を流す。

「・・・お前ももう寝ろよ?」

「待てよ」

踵を返そうとする隼人を、竜馬はそう呼び止めておいて、備え付けのキャビネットから酒瓶を取り出した。

それを用意してあった酒盃に注いで、押し付ける。

どうやら飲ませるために事前に準備してあったらしい。

「飲め」

急に鼻の奥を刺すような臭気を近づけられ、眩暈にも似た感覚を覚えながら隼人は苦笑した。

「・・まだ仕事がある」

「酒一杯くらいでどうにかなるようなお前じゃねぇだろ?」

少なくとも以前は。

内心で続けた言葉に竜馬はほの暗い思いになった。

隼人は艶を失いかけた髪を振って、

「酒のにおいさせながら仕事には戻れない」

「戻らなきゃいいじゃねぇか」

「・・リョウ」

子供のわがままを咎めるような口調だった。

意固地とも言える態度をとり続ける親友の手をやんわりかわそうとするが、問答無用の勢いで退避を妨げられる。

どうやら素直に行かせてはくれないらしい。

隼人はまた小さくため息をついて、やや下にある親友を睨んだ。

竜馬は向けられた非難じみた目を跳ね除けて、ほとんど懇願するように言い募る。

「飲まないなら押さえつけて流し込むぞ」

脅すような口調だったが、声は掠れて迫力がない。

そのあまりに必死な形相に、隼人は降参を示すように両手を上げた。

この男がこうまで言うなら自分がどう詭弁を弄しても無駄だ。

頑なな態度をとり続ければ、言葉通りのことを実行するに違いない。

それは少々ありがたくない。

仕事に穴が空いてしまうが、この際仕方がないだろう。

また挽回すればいい。

しぶしぶ琥珀色の液体に満たされたグラスを受け取る。

匂いから察するに相当強い酒なのはわかった。

普段なら少し控えめに口にするだろうが、今の隼人には味などわからない。

ここしばらく味覚が感じられなくなっているのだ。

すぐに終わらせてしまおうとするように、一息で飲み干す。

久しぶりに味わう喉を焼く感覚。

それが縮みきった胃に到達すると、棘が突き刺さるような痛みに変わる。

すると唐突に体の力が抜けた。

「え?」

異変に気付いた時はもう遅かった。

支えを失ったように、がくりと膝をつく。

「リョウ・・・何を・・・」

何かを盛られた。

それは即座に悟ったが、抗議を口にする前にへたりこんでしまう。

竜馬は困惑を露に見上げてくる視線を痛ましそうに受け止め、厳命を告げるように言った。

「寝ろ。今は。そうじゃないと・・おまえはもたない」

「ふざけるな」

けして大きな声ではなかったが、底冷えするような怒気を孕んでいた。

床に倒れこむことを切望する体を無視して、親友を睨みつける。

「自分の体くらい自分でわかっている」

「ああ。わかってるだろうな。それで放っておいてる」

偉丈夫はつらそうに、そう指摘した。

本当はこんな騙まし討ちのようなことはしたくなかった。

だがどれほど言っても隼人が聞かないことはわかっていたのだ。

「隼人。今はとにかく寝ろ。それで明日にでも休みとって

「俺には仕事がある」

「死にそうになるまでやることじゃねぇだろ?!」

頑なに休息を拒む青年に、思わず声が大きくなる。

相手と目線を合わせるようにしゃがみこみ、めっきり骨ばってしまった肩を掴んだ。

「頼むから!今は寝ろ!死んじまうぞ!!」

「・・・・・・」

隼人は何も答えなかった。

それは竜馬の主張を聞き入れたからではない。

なんとか瞼は上がっていたが、焦点が合っていなかった。

意識がなくなってきているに違いない。

睡眠薬が効いているのだろう。

今までの隼人にはこんな薬は効かなかった。

いや、そもそも嚥下することすらありえなかった。

普段の彼ならばすぐに異物の味に気付いたはずだ。

それに竜馬と同じく代謝が尋常でなく、一般人ならば致死量の筋弛緩剤すらも一時間で分解出来た。

だが今はどうだ。

通常量の薬にも抗えないでいる。

これは相当にまずい。

とにかく医務室に連れて行かなくては。

そう考えながら親友が眠りに落ちるのを待つ。

するとばりんと硬いものが押し割られる音が、二人の間に響いた。

「!?」

「・・・・」

音の発生源を見れば隼人の手の中でグラスが握り潰されている。

そしてすっかり薄くなった掌から栓を抜いたように血が溢れ出した。

「馬鹿!!」

竜馬は心の底から罵って、もう微かにしか意識がない隼人から鋭利な凶器を取り上げた。

その反動で細い体が、ガラス片が散乱する床に倒れこみそうになり、慌てて支える。

白いリノリウムに真紅の花が咲いていた。

「何考えてんだよ!?」

無遠慮に破片を握り締めたために、傷口が相当深い。

色を失った肌の中に禍々しいほど鮮やかな血肉が覗いていた。

「・・・・・・・・うるさい」

出血のためにさらに生気を失った面を歪めて、浅い息と共に吐き出す。

白皙の額には脂汗が滲んでいた。

この出血量はまずい。

直感的にそう判断した竜馬は、急いでその体を抱き上げようとする。

だが隼人はその助けを床にすがるようにして拒絶した。

まだ抗う力が残っているかのように見えるが、どうにか気力をかき集めているだけだろう。

しかしそれもそう長く持たなかった。

苦しげな喘鳴を最後に、隼人は糸が切れるように昏倒する。

薬剤と出血多量がようやく彼から苦しみから開放したようだ。

完全に竜馬に寄りかかる姿勢になったが、その予想外の軽さに愕然とした。

以前にも何度か怪我などの理由でこの男を担いだことがある。

その時は重いとまではいかないものの、しっかりとした重さがあった。

しかし今は_。

死人のような顔で眠る隼人の顔を横目に、今のうちに止血だけでもしようとしわくちゃのハンカチを取り出し、手首をきつく縛る。

ここではもぐりこんだガラス片までとりのぞくことは出来ない。

ならば直接傷口を圧迫するわけにはいかなかった。

だがかなり強く結んだのに、出血は収まることを知らず滴り続ける。

(・・・泣いてるみてぇだ)

ふとそんな感想が頭に浮かんだ。

だらりと弛緩した指を伝い落ちる血潮は、彼の涙ではないだろうか。

隼人と竜馬はミチルの葬儀に出席していない。

早乙女博士がそれを許さなかった。

彼は最愛の人の死を見送ることも出来なかったのだ。

しかしそれでも隼人の目は乾いたままだった。

竜馬もミチルが死んだことはひどく哀しい。

一時は落ち込みもした。

だがそれでもこうしてなんとかやっていっている。

隼人の傷口はまだ塞がってもいないのだ。

「・・本当に痛い時は・・泣くことも出来ねぇのかもな」

枯れ木のような親友を抱えあげながら、苦い声音が呟いた。

 

 

 

 

「・・・・これはしばらく安静にしてる必要がありますね」

一通りの診察を終えた常駐医は、険しい顔で控えめに報告した。

大学病院などよりも遥かに設備に優れた医療区画。

真夜中に押しかけた竜馬達に、嫌な顔ひとつせずきちんと応対してくれたいい先生である。

予想通り、隼人は完全な過労だそうだ。

しかも栄養失調というおまけもつく。

冗談ではなくかなり深刻な状態だったらしい。

普通の人間ならばとっくの昔に死んでいたそうだ。

「・・・休むように言っても・・・聞いてくれないでしょうね」

「・・あ」

頭痛を感じるように眉間を押さえながら振られた話に、竜馬は苦々しく頷く。

口で言って聞くようならこんな強硬手段など使わない。

ベッドに埋まるようにして横たわっている隼人を見やる。

手の治療を終えて、今は麻酔で眠っているがそれが切れたらすぐに仕事に戻ろうとするだろう。

めっきり肉が落ちた腕に伸びる複数の点滴が、血の気のない美貌をなおさら無機物に近くしているように感じられた。

担当医はカルテをもう一度視線でなぞると、険しい目を患者に向ける。

「ですがこのまま休まずにいたら確実に死んでしまいます。なんとかして食事と睡眠だけでもとってもらわないと」

「・・・わかってる」

それはわかっている。

「・・あんたはもう休んでくれ。あとは俺が話す」

「・・・わかりました」

もう老年に近い医師は重々しく頷くと、何かあったら呼ぶように言い置いて出て行った。

竜馬は気合を入れるように鋭く呼気を吐くと親友に向き直る。

ここに運び込んでから数時間、寝返りもうたずに昏々と眠り続けていた。

かさついた唇を固く結んで、額に汗を滲ませている。

そこにはまだうっすらと以前の傷が残っていた。

悪い夢でも見ているのだろうか?

考えてみれば、つい先ほど体温をはかったら四十度近くの熱が出していた。

おそらく今まで張り詰めていたものが一気に剥がれたのだろう。

どれだけ隼人が無理を重ねていたのかが知れるというものだ。

そのことに思い至った竜馬は、とりあえずタオルか何かで冷やしてやろうと周囲を見回す。

するとうまいぐあいに清潔なタオルを見つけ、次に洗面器を引っ張り出す。

氷なら備え付けの冷蔵庫に入っているはずだ。

竜馬が洗面器に氷水を満たした時、まるでその気配がわかったように微かな呻きがあがった。

「・・・・・ん」

「・・隼人?」

声を潜めて控えめに呼びかける。

すると花が開くようにのろのろと瞼があがった。

まだ半ば夢の世界に身を浸しているらしく、表情には作られた精彩すらもない。

「・・・・・・・・・俺はどのくらい寝ていた」

ひどくだるそうな声だった。

無理もない。

まともに寝たのがいつだったか覚えてもいないのである。

開口一番のあまりに素っ気無い問いかけに、竜馬はなんとも言えない顔で答えた。

「四時間ちょい。しばらくは寝てろよ」

「・・・・・・・」

「嫌だって言っても駄目だからな。俺がずっと見張ってるから抜け出せないぜ」

全ての質問を予測して釘を刺す竜馬に、稀代の天才は辟易とした様子で眉を寄せる。

「・・俺は猛獣か」

「手負いのな」

その返しに隼人はゆるゆると親友に目線を移動させた。

竜馬はそれを確認して真顔で続ける。

「俺は謝んねぇぞ」

「・・・・」

「悪いことしたなんて全く思ってねぇからな。だから謝んねぇ」

「・・・勝手な奴だ」

「ああ。今のお前になら殴られても痛くも痒くもねぇから強気なんだよ」

それは開き直りとしか言えないような発言だったが、とても優しい声だった。

死神に抱かれているかのような親友に言い聞かせるように音階を低める。

「俺はお前に死んで欲しくない」

「・・・・・」

唐突な台詞だったが、万感の思いが宿っていた。

隼人は何も答えない。

その沈黙に苛立ったように、十年来の戦友はひとことひとこと区切るように語気を強めた。

「お前がどんだけ死にたがっても助けるからな」

「・・・・」

隼人は口をつぐんで、長い睫毛を伏せた。

そしてまるで独り言でも言うようにかつぜつを濁らせる。

「・・別に死にたいわけじゃない」

「嘘二回目だ」

竜馬は実も蓋もなく切り捨てた。

これほど自分の体に無頓着で何をほざくか。

全身に怒気すら滾らせて、親友の美貌を睥睨する。

気の弱い人間だったらそれだけで縮み上がりそうな迫力だったが、隼人はそれには動じなかった。

「・・・嘘じゃないさ」

色のない口唇が微笑を形作る。

何も知らない若人に目を細める老人のような、昏い笑顔だった。

「俺には役割がある。それにお前らがいる」

だから死なない。

死ぬわけにはいかない。

まるで自分に言い聞かせるように、隼人はそう断言した。

「俺・・・はまだ生きなきゃいけないんだ。だから__」

そこまでなんとか声にしたが、遂に限界がきたらしい。

続きを表に出すことなく、見えない手に引き゚されるように、ゆるゆると瞼を下ろす。

そしてすぐに細い寝息をたて始めた。

「・・・・・・・・・・・・・」

再びベッドの海に身を沈めた親友に、竜馬は痛みに耐えているように歯を食いしばった。

その頭の中では今しがたの会話が幾度も繰り返されている。

隼人は『まだ』と言った。

『まだ』生きなければならないと言ったのだ。

なんと言ってやればいいのかわからなかった。

隼人はわかっているのだ。

死んでも仕方がないことを。

だから生きる理由を作り出している。

これほど仕事に打ち込んでいるのは、そうしていないと生きられないからだろう。

彼は常に戦っているのだ。

血を流し続ける傷の痛みと。

泥のように眠る安らかとは言い難い寝顔を見下ろす。

透けそうなほど蒼白い肌には、また汗が吹き出し始めていた。

それを濡れタオルで拭き取ってやりながら、竜馬は呟く。

「どうすりゃいいんだよ・・俺は」

逃げているなら逃げるなと言える。

だが隼人は懸命に耐えているのだ。

そして生きようとしている。

しかしこれではあまりに哀しすぎる。

「・・じじいが目を覚ましゃ、少しは違うんだろうが・・」

変わってしまったかつての『父』を思い浮かべ、くしを通していない髪をかき乱した。

博士は聡明な人間だ。

だから本当はあの事故の原因がふたりにないことはわかっているはずである。

しかし会うたびに突き刺さる怨念と悪意に満ちた目がそれを否定する。

あれは裏に気遣いや罪悪感など存在しなかった。

本気で竜馬達を憎悪している。

「・・なんでこうなっちまったんだろうな」

ついこの前まで皆一緒に笑っていたのに。

これからもずっとこうだと疑わなかったのに。

何故こんなことになってしまったのか。

その問いに答えられるものはいない。

 

 

 

 

 

一ヵ月後、早乙女博士を神隼人が殺害。

流竜馬はその容疑者としてA級刑務所に投獄される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

本編の補足的な内容だと最初から決めて書いたので起承転結が存在してません(笑)

まあ、強いて言うなら『起』オンリー。

なんで武蔵と弁慶いないのとか聞かないでください(^口^;)

多分月面戦争後のあのCD以降は国軍の仕事の方にずっと行ってると思ったんです。

それじゃないと事故の時なんでミチルさんが三号機乗ってたのかとか、事故の時の映像にふたりがいないのかとか説明出来ないので。

あくまで私の私見ですが、ミチルさんの死は相当隼人にダメージ与えたと思うんですよ。

泣いてましたしね。

それに早乙女博士の豹変はかなり強烈に響いたでしょう。

誰だって最愛の女性が亡くなって、その傷口が全く塞がらない中尊敬する人間にことあるごとに、その辺を詰られれば病み始めると思います。

彼は強いですが、優しいのでその痛みは想像絶するでしょうし。

それに私の中では彼、自分の役割や自分の大切な人が全てなくなったらなんの躊躇いもなく死を選びそうだと感じてます。

この後彼は竜馬との友情を手放す覚悟を決めるわけですが、それはインベーダーと戦うという自分の役割が存在したからであって、その役割がなかったら竜馬を裏切らなかったでしょうし、不可抗力でそうなってしまったら彼はちゃんと生きてくれないと思います。

夢見すぎだと言われればそれまでですが、私の中の彼はそういう人です。

失う痛みに耐える理性を持っていても、それは外観強度だけで内部は押し潰されるんですよ。

ひとりになるのが嫌なんだと思います。

この話をいつもお世話になっているかるらさんに捧げます。










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 ラグナロクさんから頂きました。

 私はTV版から入りましたので、隼人とミチルさんが婚約していたと言う設定は大好きです。

 OVA『真(チェンジ!!)』は、話の内容がわかりにくいというより、「もうちょっと、そこ、説明して!」といった、もどかしさがあるように思えます。ですから、かえって創作意欲が湧く、大好きな作品です。

 いろんな『真(チェンジ)』を読みたいと思っておりますので、ラグナロクさんの作品はいつも楽しみにさせていただいております。これからも、ちょーだい!!

          (2007.9.2      かるら)